古葉竹識とは何者か?広島初優勝から黄金期、大洋監督時代と2021年の死去まで徹底解説
古葉竹識(こば・たけし)は、広島東洋カープを球団史上初のセ・リーグ優勝に導き、4度のリーグ優勝と3度の日本一を成し遂げたプロ野球界の名将です。俊足を生かした機動力野球、選手の能力を引き出す育成力、そして「耐えて勝つ」という野球観で、1970年代から1980年代にかけてカープの黄金時代を築きました。
2026年現在、古葉氏はすでにこの世を去っています。2021年11月12日に85歳で死去しましたが、その功績は野球殿堂入りや広島の球団史とともに語り継がれています。選手時代の古葉毅という登録名、大洋ホエールズ監督時代、伝説の「江夏の21球」、晩年の東京国際大学野球部での指導まで、実績と関係者の証言をもとに生涯を振り返ります。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 人物:古葉竹識の読み方は「こば・たけし」。本名は毅で、1936年4月22日生まれ、熊本県出身です。
- 最大の功績:1975年に広島を球団初優勝へ導き、在任11年間でリーグ優勝4回、日本一3回を達成しました。
- 野球観:「耐えて勝つ」を信条に、機動力、緻密な作戦、厳しい選手育成を組み合わせた赤ヘル野球を確立しました。
- 監督通算成績:873勝791敗137分け。1999年に野球殿堂入りを果たしています。
- 晩年と現在:東京国際大学野球部でも指導し、2021年11月12日に85歳で死去しました。
【人物像を徹底解説】古葉竹識の読み方・プロフィール・本名は?
古葉竹識は「こば・たけし」と読みます。プロ野球選手として広島と南海でプレーした後、広島東洋カープや大洋ホエールズの監督を務めた人物です。
野球殿堂博物館の公式プロフィールにも掲載されており、広島の黄金時代を築いた指導者として評価されています。
古葉竹識の基本プロフィール
| 項目 | プロフィール |
|---|---|
| 氏名 | 古葉竹識 |
| 読み方 | こば・たけし |
| 本名 | 毅(たけし) |
| 生年月日 | 1936年4月22日 |
| 出身地 | 熊本県 |
| 出身高校 | 熊本県立済々黌高校 |
| 大学 | 専修大学(中退) |
| 社会人野球 | 日鉄二瀬 |
| 投打 | 右投右打 |
| 主なポジション | 遊撃手・二塁手 |
| 身長・体重 | 174cm・70kg |
| 野球殿堂入り | 1999年 |
| 死去 | 2021年11月12日(85歳) |
出典は野球殿堂博物館、日刊スポーツなどの人物紹介・訃報資料です。
古葉毅と古葉竹識は同一人物?
「古葉毅」という名前を見て、別人ではないかと疑問に感じる人もいるかもしれません。
結論からいえば、古葉毅と古葉竹識は同一人物です。古葉氏の本名は毅で、現役時代の初期には「古葉毅」という登録名を使用していました。週刊ベースボールONLINEの選手紹介によると、1963年までの登録名が古葉毅で、1964年以降は古葉竹識として知られるようになっています。
そのため、過去の野球記録や資料を調べる場合には、両方の名前を確認することが大切です。

【選手時代の経歴】広島入団から盗塁王2回を獲得するまで
古葉竹識の監督としての成功を理解するには、まず選手時代の経験を知る必要があります。古葉氏は、監督になってから突然機動力野球を考案したわけではありません。現役時代に自ら走り、守り、チームのためにプレーしてきた経験が、その指導方針の土台になっていました。
済々黌高校から日鉄二瀬を経てプロ入り
1936年、熊本県に生まれた古葉氏は、済々黌高校で野球に打ち込みました。高校時代には遊撃手として甲子園にも出場しています。
1955年に専修大学へ進学しましたが、その後中退。社会人野球の日鉄二瀬に入社し、実力を磨きました。
1958年、広島カープに入団します。当時の広島は現在のような常勝球団ではなく、球団としての基盤を築いている時期でした。
古葉氏は入団1年目から遊撃手として出場機会を得て、俊足と巧打を武器にチームを支えます。1963年には巨人の長嶋茂雄と首位打者争いを演じるなど、打撃面でも存在感を示しました。
1964年と1968年に盗塁王を獲得
古葉氏の選手としての大きな特徴は、走塁能力でした。
1964年には57盗塁を記録して初の盗塁王に輝き、1968年にも39盗塁で2度目のタイトルを獲得しています。通算盗塁数は263。俊足を生かしたプレーは、後の監督時代に取り入れた機動力野球にもつながりました。
1970年には南海ホークスへ移籍し、1971年に現役を引退。その後は南海のコーチとして指導者の道を歩み始めます。
この南海時代の経験も重要です。選手としてのキャリアだけでなく、異なるチームの野球や指導方法に触れたことが、後の広島でのチームづくりに生きていきました。
【広島カープ監督時代】1975年初優勝からリーグ優勝4回・日本一3回へ
古葉竹識の名前を日本プロ野球史に刻んだ最大の出来事が、1975年の広島カープ初優勝です。
1974年にコーチとして広島へ復帰した古葉氏は、翌1975年、ジョー・ルーツ監督の退団を受けて監督に就任しました。当時39歳。シーズン開幕直後という難しいタイミングでチームを引き継ぎ、球団創設以来初となるセ・リーグ優勝を達成します。
1975年の初優勝が広島にもたらしたもの
広島は1950年に球団が創設されて以来、長く優勝から遠ざかっていました。資金力や選手層の面で大都市球団に対抗する難しさもあり、球団の歴史は決して平坦ではありませんでした。
その状況で古葉氏が率いたチームは、機動力と緻密な野球を武器に躍進します。
1975年の優勝は、単にペナントレースで1位になったというだけではありません。広島の球団、選手、ファンにとって、長年の努力が結実した歴史的な出来事でした。街を挙げての歓喜は、後年の関係者インタビューでも振り返られています。
ただし、1975年はリーグ優勝こそ果たしたものの、日本シリーズでは阪急ブレーブスに敗れています。広島が初めて日本一になったのは1979年です。この2つを混同しないことが、古葉氏の実績を正確に理解するポイントです。
古葉竹識の監督時代を年表で整理
| 年代 | 所属・立場 | 関係人物・出来事 | 主な実績・意味 |
|---|---|---|---|
| 1958年 | 広島カープ入団 | 日鉄二瀬から移籍 | 遊撃手として活躍 |
| 1964年 | 広島選手 | 古葉毅から古葉竹識へ | 57盗塁で初の盗塁王 |
| 1968年 | 広島選手 | 俊足巧打の内野手 | 2度目の盗塁王 |
| 1970~71年 | 南海ホークス | 選手として移籍 | 1971年に現役引退 |
| 1974年 | 広島コーチ | 球団に指導者として復帰 | 監督就任への準備期間 |
| 1975年 | 広島監督 | ジョー・ルーツの後任 | 球団史上初のリーグ優勝 |
| 1979年 | 広島監督 | 江夏豊ら主力選手 | リーグ優勝・球団初の日本一 |
| 1980年 | 広島監督 | 赤ヘル黄金時代 | リーグ連覇・日本一 |
| 1984年 | 広島監督 | 黄金時代の集大成 | リーグ優勝・日本一 |
| 1987~89年 | 大洋監督 | 横浜大洋ホエールズ | 3シーズン指揮 |
| 1999年 | 野球殿堂入り | 競技者表彰 | プロ野球界への功績を評価 |
| 2008~15年 | 東京国際大学監督 | 大学野球の指導 | 2011年にリーグ初優勝 |
| 2021年 | 死去 | 11月12日 | 85歳で生涯を閉じる |
野球殿堂博物館の記録や広島アスリートマガジンの経歴記事を基に整理しています。
広島で達成した4度のリーグ優勝と3度の日本一
古葉監督の広島時代におけるリーグ優勝は、1975年、1979年、1980年、1984年の4回です。
日本シリーズを制したのは1979年、1980年、1984年の3回。特に1979年は、広島が球団創設以来初めて日本一に輝いた記念すべきシーズンでした。
1980年にはリーグ連覇と日本シリーズ連覇を達成。1984年にも再び日本一となり、古葉体制の強さを示しました。
1985年まで11年間にわたって広島を率いた古葉氏は、山本浩二、衣笠祥雄、高橋慶彦らを中心にチームを構築しました。選手の能力を見極め、役割を与え、個人の力を組織の力に変えたことが、長期政権の成果につながっています。

【野球観を分析】「耐えて勝つ」と赤ヘル野球、江夏の21球の真相
古葉竹識の指導者としての特徴を理解するうえで欠かせない言葉が「耐えて勝つ」です。
これは古葉氏の座右の銘として知られ、同名の著書もあります。しかし、単に守備を固めて相手の攻撃を待つという意味ではありません。苦しい状況でもチームの方針を崩さず、基本を徹底し、勝機が訪れたときには積極的に動くという考え方に通じています。
赤ヘル野球の本質は盗塁数だけではない
古葉氏の野球を語るとき、「赤ヘル野球」「機動力野球」という表現がよく使われます。
機動力野球とは、盗塁を多用するだけの戦術ではありません。走者が次の塁を狙う姿勢、相手守備へのプレッシャー、進塁打や走塁判断など、試合の細部を積み重ねて得点につなげる野球です。
広島アスリートマガジンが紹介した2005年の古葉氏のインタビューでは、山本浩二と衣笠祥雄について興味深い話が語られています。
両選手は必ずしも俊足タイプではありませんでしたが、次の塁を狙う意欲が強く、盗塁のサインを積極的に求めるほどだったといいます。中心選手がその姿勢を示すことで、周囲の選手にも積極的な走塁意識が広がっていきました。
また、高橋慶彦にはスイッチヒッターへの転向を提案。左打席でも練習を重ねさせ、持ち前の俊足を生かせる遊撃手として育てました。さらに山崎隆造にもスイッチヒッターへの挑戦を促しています。
ここに古葉野球の特徴があります。単に既存の戦力を使うのではなく、選手の長所を発見し、その能力をチーム全体の戦術に結び付けていたのです。
「耐えて勝つ」は消極的な野球ではない
古葉氏の野球観は、我慢と積極性を組み合わせたものです。
試合中には相手の動きを観察し、失点を防ぎながら好機を待つ。一方で、走者が出れば次の塁を狙い、必要な場面では大胆な作戦を実行する。こうした判断を支えたのが、日頃からの練習と選手への厳しい指導でした。
日本私立大学協会の教育学術新聞が紹介した古葉氏の指導論でも、試合中のミスをその場で指摘し、細かな問題点を修正する姿勢が取り上げられています。
同記事は古葉氏の指導者像を「育成」と「細心」という言葉で表現しています。勝敗だけでなく、選手の成長と細部への注意を重視していたことが分かります。
1979年の「江夏の21球」で見せた監督としての決断
古葉竹識の采配を象徴する出来事が、1979年11月4日の日本シリーズ第7戦で起きた「江夏の21球」です。
広島と近鉄の対戦は、広島が4対3でリードしたまま9回裏を迎えました。マウンドには救援エースの江夏豊。ところが、近鉄は無死満塁という絶体絶命のチャンスをつくります。
この場面で古葉監督は救援投手をブルペンで準備させながらも、江夏に投球を任せました。
江夏は代打・佐々木恭介を三振に仕留め、続く石渡茂のスクイズを見破ります。三塁走者をアウトにした後、石渡も三振に打ち取り、21球で大ピンチを切り抜けました。
この場面は「江夏の21球」として、現在も日本プロ野球史に残る名場面として知られています。
ここで注目したいのは、古葉監督が単に江夏を交代させなかったという点ではありません。救援の準備を進めながら、最後は投手本人の力を信じて任せたことです。
監督がすべてをコントロールするのではなく、選手の能力と状況を見極め、適切な場面で信頼を示す。古葉氏の采配には、こうした選手との関係づくりも表れていました。
この勝利によって広島は球団史上初の日本一を達成。古葉監督の名前と「江夏の21球」は、切り離せない歴史となりました。
【大洋ホエールズ監督から東京国際大学へ】広島退任後の経歴
1985年に広島監督を退任した古葉氏は、その後も野球界で指導者として活動を続けました。
1987~1989年の大洋ホエールズ監督時代
1987年、古葉氏は横浜大洋ホエールズ(現在の横浜DeNAベイスターズ)の監督に就任します。
広島で4度のリーグ優勝と3度の日本一を経験した指導者だけに、大洋でもチーム再建への期待が寄せられました。
しかし、大洋時代は広島時代のような優勝実績を残すことはできませんでした。1987年から1989年までの3シーズンを指揮しましたが、リーグ優勝には届かず、1989年限りで退任しています。
この時期は、古葉氏のキャリアを評価するうえで重要な比較対象です。広島での成功が、どのチームでも同じ形で再現できるわけではないことを示しています。
チームの選手層、球団の状況、編成方針など、監督の采配以外にも勝敗を左右する要素があります。大洋時代の結果だけで古葉氏の指導力を判断するのは適切ではありません。
監督通算873勝の記録
古葉氏の監督通算成績は、以下のとおりです。
| 項目 | 記録 |
|---|---|
| 監督通算試合数 | 1801試合 |
| 勝利 | 873勝 |
| 敗戦 | 791敗 |
| 引き分け | 137分け |
| 勝率 | .525 |
| リーグ優勝 | 4回 |
| 日本一 | 3回 |
この873勝は広島時代だけの数字ではなく、大洋時代を含めた監督通算成績です。広島と大洋の両方で指揮を執った全期間の記録として理解する必要があります。
1999年に野球殿堂入り
古葉氏は1999年、野球殿堂の競技者表彰で殿堂入りを果たしました。
現役時代の盗塁王2回、ベストナイン1回という実績に加え、監督として広島の黄金時代を築いた功績が評価されています。
また、1980年には正力松太郎賞を受賞。監督としての優れた実績も、野球界から高く評価されていました。
東京国際大学野球部での指導と2011年の快挙
古葉氏の野球人生は、プロ野球の監督退任後も続きました。
2008年4月、東京国際大学硬式野球部の監督に就任します。プロ野球で培った経験を大学野球に持ち込み、選手の育成に取り組みました。
その成果が表れたのが2011年です。東京新大学野球春季リーグでチームを初優勝に導き、全日本大学野球選手権では準決勝に進出してベスト4入りを果たしました。
プロ野球での実績を大学野球でも生かし、短期間でチームを全国レベルへ引き上げたことは、古葉氏の指導力を示すもう一つの成果です。
2016年には監督を退任し、その後は名誉監督として紹介されました。プロ野球の勝利だけでなく、次の世代を育てることにも力を注いだ野球人生でした。

【2026年最新】古葉竹識は現在どうしている?2021年の死去と功績の評価
古葉竹識の現在について検索する人が多い理由の一つは、広島カープの黄金時代を築いた名将が、晩年にどのような活動をしていたのかを知りたいからでしょう。
2026年10月現在、古葉氏は存命ではありません。2021年11月12日、85歳で亡くなっています。
2021年11月12日に85歳で死去
古葉氏の訃報は2021年11月16日に明らかになりました。広島球団を通じて長男から発表され、葬儀・告別式は近親者のみで執り行われたと報じられています。
訃報を伝えた日刊スポーツやデイリースポーツは、1975年の初優勝、4度のリーグ優勝、3度の日本一といった実績を紹介し、その功績を振り返りました。
古葉氏の死去は、広島の黄金時代を知る野球ファンや関係者にとって大きな出来事となりました。
2026年現在も評価される古葉竹識の功績
古葉氏の評価を考えるとき、単純に監督通算873勝という数字だけを見るのでは不十分です。
特に重要なのは、次の3つの実績です。
- 球団史を変えた実績:1975年に広島を初優勝へ導き、地方球団としての存在感を高めたこと。
- 長期的なチームづくり:11年間の監督在任中に4度のリーグ優勝と3度の日本一を達成したこと。
- 選手育成への貢献:山本浩二、衣笠祥雄、高橋慶彦らを中心に、選手の能力を組織的な強さへ変えたこと。
とりわけ注目したいのは、古葉氏が機動力野球を単なる作戦としてではなく、チーム全体の文化として定着させた点です。
足の速い選手だけに走塁を任せるのではなく、主力選手にも次の塁を狙う意識を持たせる。選手の長所に合わせて役割を与え、全員が同じ方向を向いて戦う。この考え方が、広島の強さを支えていました。
古葉竹識に関するよくある誤解
誤解1:1975年に広島が日本一になった。
1975年に達成したのは球団初のセ・リーグ優勝です。日本シリーズでは阪急に敗れており、初の日本一は1979年です。
誤解2:873勝は広島監督時代だけの成績。
873勝は大洋監督時代も含めた監督通算の数字です。広島在任中の成績とは区別する必要があります。
誤解3:古葉毅と古葉竹識は別人。
どちらも同一人物です。本名は毅で、現役初期には古葉毅の登録名を使用していました。
誤解4:現在も東京国際大学で指導している。
東京国際大学野球部の監督を務めたのは2008年から2015年までで、その後は監督を退任しています。2021年に死去しているため、2026年現在の指導活動はありません。
【古葉竹識に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:古葉竹識の読み方は何ですか?
A1:読み方は「こば・たけし」です。本名は毅で、現役初期には「古葉毅」という登録名でプレーしていました。
Q2:古葉竹識はいつ亡くなりましたか?
A2:2021年11月12日に85歳で亡くなりました。訃報は同月16日に公表されました。
Q3:古葉竹識は広島を何回優勝させましたか?
A3:広島監督時代にセ・リーグ優勝4回、日本一3回を達成しています。リーグ優勝は1975年、1979年、1980年、1984年。日本一は1979年、1980年、1984年です。
Q4:古葉竹識の監督通算成績はどれくらいですか?
A4:1801試合で873勝791敗137分け、勝率.525です。広島と大洋での監督成績を合わせた数字です。
Q5:「耐えて勝つ」とはどういう意味ですか?
A5:古葉氏の座右の銘であり、著書のタイトルでもあります。苦しい状況でも基本と方針を守り、粘り強く勝機を探すという野球観を表しています。消極的に守るだけではなく、機動力を生かした積極的な攻撃も重視していました。
まとめ:古葉竹識が広島カープに残したものと今後も語り継がれる功績
古葉竹識は、広島カープの歴史を大きく変えたプロ野球界の名将です。1958年に選手として広島へ入団し、盗塁王2回を獲得。引退後は指導者としてチームに戻り、1975年に球団初のリーグ優勝を達成しました。
その後も1979年、1980年、1984年にリーグ優勝を果たし、3度の日本一を実現。機動力を重視した赤ヘル野球と「耐えて勝つ」という信念によって、広島に黄金時代をもたらしました。
大洋ホエールズ監督時代には優勝に届かなかったものの、監督通算873勝という実績を残し、1999年には野球殿堂入り。さらに東京国際大学では大学野球の指導にも携わり、2011年にはチームを大学野球選手権ベスト4へ導きました。
2021年11月12日に85歳で亡くなった古葉氏ですが、その野球観とチームづくりは、今も広島カープの歴史を振り返るうえで欠かせないものです。
古葉竹識の真の功績は、優勝回数だけではありません。選手の能力を見極め、個々の力を組織の強さに変え、苦しい局面でもチームの方針を貫く姿勢を示したことにあります。
1975年の初優勝から「江夏の21球」、そして大学野球での後進育成まで。その歩みは、勝つための戦術と人を育てる指導力の両方を備えた名将の生涯として、これからも日本プロ野球史に刻まれていくでしょう。
主な事実確認資料
- 野球殿堂博物館:古葉竹識の公式プロフィール・表彰・選手成績。
- 日刊スポーツ:2021年の訃報、本名、現役・監督時代の経歴。
- 広島アスリートマガジン:2005年の本人インタビューを含むチームづくりの証言。
- デイリースポーツ:「江夏の21球」における古葉監督の判断。
- 日本私立大学協会・教育学術新聞:東京国際大学での指導と「耐えて勝つ」の野球観。 (出典: 古 葉 竹 識(Yahoo!ニュース))