【出会いの真相】wowakaと米津玄師はニコニコ動画で知り合った
2人の出会いについて、最も重要な証言を残しているのは米津玄師本人です。2019年4月10日に公式サイト「REISSUE RECORDS」で公開した追悼文「野暮」の冒頭で、wowakaとの出会いをニコニコ動画だったと明かしています。
wowakaさんと出会ったのは10年くらい前のニコニコ動画だった。
この文章が公開されたのは2019年です。そのため、出会いはおおむね2009年前後と考えられます。2026年から振り返れば、約17年前にあたる時期です。
同じ時代に活動を始めた2人のボカロP
wowakaは1987年11月4日生まれ。2009年5月11日にニコニコ動画へ「グレーゾーンにて。」を投稿し、ボカロPとして活動を始めました。初音ミクを使用した楽曲を中心に、「裏表ラバーズ」「ローリンガール」「ワールズエンド・ダンスホール」などを発表しています。
一方、米津玄師も2009年からハチ名義でニコニコ動画にオリジナル楽曲を投稿。代表作には「マトリョシカ」「パンダヒーロー」「結ンデ開イテ羅刹ト骸」などがあります。
当時のニコニコ動画は、音楽制作を個人で行うクリエイターが作品を投稿し、視聴者やほかの制作者と交流する場でもありました。レコード会社やテレビを通さず、楽曲そのものが評価され、作り手同士のつながりが生まれる環境だったのです。
2人はほぼ同じ時期に作品を投稿していました。米津は「野暮」の中で、wowakaの音楽を初めて聴いたときの衝撃を振り返り、とりわけ「ワールズエンド・ダンスホール」に強い影響を受けたと記しています。
初対面は即売会のイベントだった
ネット上で互いの存在を認識していた2人が、実際に顔を合わせたのは即売会のイベントでした。
米津によると、最初はお互いにシャイだったため、会話が特別多かったわけではありません。それでも、音楽について「ああでもないこうでもない」と話し合った記憶が残っているといいます。
つまり、2人の関係は、最初から親友として始まったわけではありません。同じ音楽シーンで活動する制作者として出会い、作品への敬意を持ちながら、徐々に個人的な交流へと発展していったのです。
【親交の実態】米津玄師が明かしたライバル意識と親友としての日々
wowakaと米津玄師の関係を語るうえで、2019年の「野暮」は欠かせない資料です。そこには、一般的な音楽仲間という言葉だけでは説明できない、2人の日常が描かれています。
尊敬していたからこそ、負けたくなかった
米津は追悼文の中で、wowakaを勝手にライバル視していたと振り返っています。ほぼ同じ時期にニコニコ動画で活動を始めたこともあり、彼にだけは負けたくないという気持ちがあったそうです。
しかし、その感情の根底には強い尊敬がありました。米津はwowakaの音楽から多大な影響を受けたことを認めています。
ここで注目したいのは、2人が単に人気を競い合う関係ではなかった点です。自分と同じように新しい音楽を作り、独自の表現を追求する相手だからこそ、刺激を受け続けていたのでしょう。
ボカロを離れた後も続いた交流
その後、2人は同じようなタイミングでボーカロイドを使った活動から一度離れ、自分自身の声で歌う道へ進みます。
wowakaはバンド「ヒトリエ」を結成し、米津はソロアーティストとして活動することを選びました。
米津は、同じような境遇の人間がほかにいないという不安もあり、2人で飲みに行くことがあったと説明しています。
さらに、交流が深まるにつれて、週に2〜3回ほど一緒に飲むこともあったそうです。音楽の話だけではなく、他愛のない会話を楽しむ関係だったことが分かります。
財布や靴まで偶然一致していた
「野暮」には、2人の親しさを伝える印象的なエピソードも登場します。
一緒にフェスへ遊びに行った際、持っていた財布が同じデザインだったことが判明。さらに、雑誌の対談では、色違いの同じ靴を履いていたことも分かり、2人で笑ったといいます。
こうしたエピソードからは、音楽的な価値観だけでなく、日常の感覚にも共通点があったことがうかがえます。
2人の関係を時系列で整理
公式プロフィール、米津玄師の追悼文、ヒトリエの公式発表をもとに、交流と活動の転換点をまとめました。
この経緯から分かるのは、2人の関係がボカロP時代だけで終わらなかったことです。活動の方向性が変わっても交流は続き、互いの音楽人生を理解する存在になっていました。
【2017年のX投稿】米津玄師が語った「ボカロっぽい」という概念
wowakaと米津玄師の関係を検索する人が特に注目するのが、2017年8月22日のX(当時のTwitter)への投稿です。
この投稿は、米津がwowakaの音楽的な功績をどのように評価していたのかを知る重要な記録です。
「ボカロっぽい」という概念を作った人物
米津が投稿した文章では、wowakaがボーカロイド界隈に与えた影響の大きさを強調し、「ボカロっぽい」という概念を作り上げた人物だと評価しています。
彼が「ボカロっぽい」という概念を作り上げたのだと思う。
さらに、自分自身もwowakaから影響を受けた人間の一人だと明かし、最大級の敬意を表しました。
この投稿が注目された背景には、2017年8月にwowakaが発表した「アンノウン・マザーグース」があります。
「アンノウン・マザーグース」が示した存在感
2017年は初音ミク10周年の節目でした。ヒトリエの公式プロフィールによると、wowakaは記念コンピレーションアルバム『HATSUNE MIKU 10th Anniversary Album「Re:Start」』に「アンノウン・マザーグース」を提供しています。
これはwowakaにとって約6年ぶりとなるボーカロイド楽曲でした。ニコニコ動画とYouTubeで公開された動画は、短期間で100万再生を記録しています。
さらに、同年10月にはヒトリエによるバンドバージョンも配信されました。ボーカロイドで表現していた楽曲を、自身のバンドサウンドでも成立させたことは、wowakaの音楽活動を理解するうえで重要な転換点です。
なぜwowakaの音楽は「ボカロらしさ」を象徴したのか
「ボカロっぽい」という言葉は、特定の楽器や音色だけを指すものではありません。高速で展開するメロディー、畳みかけるような言葉数、疾走感のあるロックサウンド、そして人間の歌唱とは異なるボーカロイドの特性を生かした表現など、複数の要素が重なった音楽的なイメージです。
wowakaの代表曲には、こうした特徴を印象づける作品が数多くあります。
特に「裏表ラバーズ」や「ローリンガール」は、激しいテンポ感と緻密なメロディー展開が印象的な楽曲です。「ワールズエンド・ダンスホール」も、ボーカロイドならではの歌唱表現とロックの疾走感を組み合わせた代表作として知られています。
もちろん、ボーカロイド文化そのものをwowaka一人が作ったわけではありません。多くのクリエイターがそれぞれの表現を積み重ねてきた歴史があります。その中で、wowakaは後続の制作者が思い浮かべる「ボカロらしさ」の形成に大きく貢献した人物だったというのが、米津の評価の核心です。
また、米津自身もハチ名義で独自の音楽性を築いていました。両者の作品を聴き比べると、同じ時代に活動しながら異なる個性を発揮していたことが分かります。
【2019年4月5日の死去】米津玄師の追悼文「野暮」に込められた思い
2019年4月5日、wowakaは急性心不全のため亡くなりました。享年31歳でした。
訃報は2019年4月8日、ヒトリエの公式サイトから発表されました。突然の知らせに、音楽関係者やファンに大きな衝撃が広がりました。
ヒトリエ公式発表で明らかになった事実
ヒトリエの公式発表によると、wowakaは4月5日に急性心不全のため永眠。葬儀は遺族の意向により近親者のみで執り行われました。
当時、ヒトリエは全国ツアーの開催期間中でしたが、訃報を受けてツアーは中止となり、イベント出演もキャンセルされました。
バンドの今後については当初未定とされましたが、残されたイガラシ、シノダ、ゆーまおの3人は音楽活動を続ける意向を示しています。
米津玄師が2019年4月10日に公開した「野暮」
訃報の2日後となる4月10日、米津玄師は自身の公式サイト「REISSUE RECORDS」に追悼文を掲載しました。タイトルは「野暮」です。
書き出しでは、文章を書くことをためらったものの、何も手につかない状況であり、自分の気持ちを整理するために書きたいと考えたことを説明しています。
文章の中で特に印象的なのは、wowakaとの関係を次のように表現した部分です。
僕にとって彼はライバルであり、親友であり、どこか兄のようでもあった。
この言葉には、2人の関係を端的に表す意味があります。
音楽では競い合う相手であり、プライベートでは気兼ねなく過ごせる友人であり、ときには兄のように感じる存在でもあった。米津にとってwowakaは、単なる同業者ではなかったのです。
「野暮」に描かれた、もう戻らない日常
追悼文には、一緒に飲みに行ったときの思い出も記されています。
酔って眠ってしまったwowakaをタクシーに乗せるまでが、2人の飲み会の恒例になっていたこと。寝ている姿を写真に撮り、いつか本人に見せようと思っていたこと。そうした何気ない日常が、突然失われてしまった現実を受け止めきれない様子が伝わってきます。
米津は、いつか写真を本人に見せながら当時の状況を説明するつもりだったと振り返っています。しかし、その約束を果たす機会は訪れませんでした。
また、wowakaと一緒に免許を取りに行くことや、海へ行くことも実現しなかったと記しています。
華やかな音楽業界で活躍する2人にも、友人同士の何気ない時間があった。そのことを伝えている点で、「野暮」は単なる著名人への追悼コメントとは異なる重みを持っています。
米津は最後に、残されたヒトリエのメンバーやスタッフ、親族、wowakaを愛していた人々への思いを述べ、いつものように生きていこうという気持ちを綴りました。
この文章が現在も読み継がれているのは、wowakaの音楽的な功績だけでなく、2人が実際に築いていた友情を伝える一次資料だからです。
【wowakaの現在】ヒトリエと未発表曲に受け継がれる音楽
「wowaka 米津玄師 現在」と検索する人が知っておきたいのは、wowaka本人は2019年に亡くなっている一方、その作品と音楽的な影響は現在も継承されているということです。
ヒトリエは3人体制で活動を継続
wowakaの死去後、ヒトリエはシノダがボーカルを担う3人体制で活動を再開しました。
2019年6月1日には、新木場STUDIO COASTで「wowaka追悼於新木場STUDIO COAST」を開催。その後も全国ツアーや作品発表を続けています。
2021年には新体制初のフルアルバム『REAMP』をリリース。シノダを中心に、イガラシとゆーまおも作曲に参加する形で、新しいヒトリエの音楽を築いてきました。
2024年には『wowaka 歌詞集』を発売
2024年5月11日には、KADOKAWAから『wowaka 歌詞集』が発売されました。
本書には、ボーカロイド楽曲からヒトリエの楽曲まで80曲以上の歌詞が収録されています。貴重な手稿や、親交の深かったアーティストによる寄稿も掲載されました。
寄稿者には米津玄師(ハチ)の名前もあります。ほかにも、じん、田淵智也、ピノキオピー、堀江晶太/kemuが参加しています。
米津とwowakaの関係を知るうえでも、こうした形で米津が歌詞集に参加したことは注目すべき出来事です。
2024年11月には未発表曲「NOTOK」をリリース
さらに2024年11月27日には、ヒトリエからwowakaの未発表曲「NOTOK」がリリースされました。
この楽曲はwowakaがボーカル、作詞、作曲を担当した作品です。同作には、wowakaが作曲した未発表曲「daybreak seeker」も収録されました。こちらはシノダが新たに作詞・歌唱を担当しています。
また、「ワールズエンド・ダンスホール」と「テノヒラ」の新録音も収録され、wowakaが作曲した楽曲を改めて届ける作品となりました。
2026年もヒトリエは活動を続けている
2026年10月30日現在、ヒトリエは現役で活動しています。
公式サイトでは、2026年の全国ツアー「HITORI-ESCAPE TOUR 2026」やアジア公演の情報が掲載されています。さらに、10月28日には年末の「COUNTDOWN JAPAN 26/27」への出演決定も発表されました。
こうした活動は、wowakaが亡くなった後も、彼が中心となって築いたバンドが音楽を鳴らし続けていることを示しています。
ただし、現在のヒトリエの作品や活動をすべてwowaka本人の新作として扱うことはできません。シノダ、イガラシ、ゆーまおの3人が、それぞれの役割を担いながらバンドの音楽を発展させています。
【プロの結論】wowakaと米津玄師の関係から分かる音楽シーンへの影響
2人の関係を理解するためには、単に「仲が良かった」「米津がwowakaを尊敬していた」という説明だけでは足りません。
重要なのは、2009年前後のニコニコ動画という環境で出会った2人が、ボーカロイドという表現手段を通じて互いに刺激を受け、その後、それぞれ異なる音楽活動へ進んでも関係を続けたことです。
誤解されやすい3つのポイント
1. 2人は単なる音楽仲間だったのか?
いいえ。米津自身が2019年の追悼文でwowakaを「親友」と表現しています。週2〜3回飲みに行くこともあったという記述からも、個人的な交流が深かったことが分かります。
2. wowakaの死去が米津玄師のボカロ活動終了につながったのか?
2つの出来事を直接結びつける根拠はありません。米津がハチ名義で発表した「砂の惑星」も、2017年に初音ミクのイベント「マジカルミライ」のテーマソングとして制作された作品です。wowakaの死去を理由に制作された作品ではありません。
3. 「ボカロっぽい」という音楽をwowakaだけが作ったのか?
米津がそう表現するほど大きな影響力を持っていたことは事実ですが、ボーカロイド文化は多くの制作者によって形成されてきました。wowakaは、その中で後世の音楽家にも強い影響を与えた中心人物の一人です。
2人の音楽を聴くなら、どこに注目すべきか
2人の関係をより深く理解したい人には、代表曲を比較して聴く方法がおすすめです。
wowakaの「ワールズエンド・ダンスホール」「ローリンガール」「アンノウン・マザーグース」では、疾走感のあるサウンドや、メロディーと言葉が一体になった表現に注目してください。
一方、ハチ名義の「マトリョシカ」「パンダヒーロー」「ドーナツホール」では、独特の言葉選びや世界観、サウンドの構築方法に注目すると、2人の違いが見えてきます。
両者に共通するのは、ボーカロイドを単なる歌声の代替として使うのではなく、音楽表現の可能性を広げるために活用していたことです。
そして、米津が2017年にwowakaへ向けた言葉には、自分とは異なる才能を認め、その存在を尊敬する音楽家としての姿勢が表れています。
wowakaと米津玄師に関するよくある質問(FAQ)
Q1:wowakaと米津玄師はいつ出会った?
A1:2009年前後と考えられます。米津玄師は2019年の追悼文「野暮」で、約10年前にニコニコ動画で出会ったと説明しています。実際に顔を合わせたのは即売会のイベントでした。
Q2:wowakaと米津玄師は本当に仲が良かった?
A2:はい。米津自身がwowakaをライバルであり親友だったと表現しています。飲みに行ったり、フェスへ一緒に出かけたりする親しい関係でした。
Q3:米津玄師がwowakaについて投稿したのはいつ?
A3:2017年8月22日です。Xでwowakaがボーカロイド界隈に与えた影響を称賛し、「ボカロっぽい」という概念を作った人物だと評価しました。
Q4:米津玄師の追悼文「野暮」はいつ公開された?
A4:2019年4月10日です。米津玄師の公式サイト「REISSUE RECORDS」に掲載され、wowakaとの出会いや友情、思い出が綴られています。
Q5:wowakaはなぜ亡くなった?
A5:ヒトリエの公式発表によると、2019年4月5日に急性心不全のため亡くなりました。享年31歳でした。
Q6:wowakaが亡くなった後、ヒトリエはどうなった?
A6:シノダ、イガラシ、ゆーまおの3人体制で活動を継続しています。2026年もライブやツアー、楽曲制作などを続けています。
Q7:wowakaの未発表曲は現在も聴ける?
A7:2024年11月27日に未発表曲「NOTOK」がリリースされています。wowakaがボーカル・作詞・作曲を担当した作品で、「daybreak seeker」なども収録されています。
まとめ:wowakaと米津玄師の関係は音楽と友情で結ばれていた
wowakaと米津玄師は、2009年前後のニコニコ動画で出会い、同じ時代のボカロPとして互いに刺激を受けながら活動してきました。
米津はwowakaをライバル視しながらも、その音楽性を深く尊敬していました。ボーカロイドから離れた後も交流は続き、飲みに行ったり、フェスへ出かけたりする親友同士の関係を築いていました。
2017年8月22日のX投稿では、wowakaがボーカロイド文化に与えた影響を称賛。2019年4月10日の追悼文「野暮」では、ライバルであり親友であり、兄のような存在だったと振り返っています。
2026年現在、wowaka本人はもういません。しかし、ヒトリエの活動、2024年に発売された歌詞集、未発表曲「NOTOK」などを通じて、その音楽は新しい世代にも届けられています。
2人の関係を知るうえで最も大切なのは、米津玄師がwowakaを単なる憧れの音楽家としてではなく、人生の時間を共有した友人として語っていたことです。
「ボカロっぽい」という言葉に象徴される音楽的な影響と、追悼文「野暮」に残された個人的な記憶。その両方を知ることで、wowakaが音楽シーンに残した功績と、米津玄師との関係の深さがより鮮明になります。
主な情報源:米津玄師 official site「REISSUE RECORDS」2019年4月10日「野暮」、ヒトリエ公式サイト「プロフィール」「2019年4月8日付訃報」「wowaka 歌詞集」、KADOKAWA公式書誌情報、デイリースポーツ2019年4月8日・10日付報道。 (出典: wowaka 米津 玄 師(Yahoo!ニュース))